喜びで生きようと決めた途端に、、、
無理矢理喜びの感情を作り出そうとしたり、思い浮かべたり、
そう「なろう」と努力したりすることが滑稽だと気付いた。
何故なら…
深淵の「私」を感じたら、それは喜びそのものだったから!
喜びで「生きる」必要もなく、喜びに「なる」必要もなく、
既に、喜びそのものであったから!
ただ、「在る」だけで、愛そのものであり、
ただ、「在る」だけで、喜びであり、、、
植物がそのような状態であることはなんとなく知っていた。
「そこに在る」だけで植物は喜びなんだと。
でも、人間の深淵にも全く同じ、「そこに在る」だけで
パーフェクトな喜びがあることを知った。
それは2011年に読んだmanaさんの著書「空」に書いてあることと
最近知ったガンガジの言っていることが全く同じだったから、
突然腑に落ちてきたこと。
ガンガジの言うように、何度も自分の内側の静けさを感じていたら
瞑想するまでもなく、腑に落ちてきた。
ただ在るだけで、完璧なんだと・・・
でも現実というか、頭の中の自分だと思い込んでいたエゴの声は
何度も何度も言う。私なんか必要じゃないと。
私なんかいらないんじゃない?
この会社に必要じゃないんじゃない?
家族にも必要とされていないんじゃない?
恋人にも本当はいらないと思われてるんじゃない?
この世界に必要ないんじゃない?
鳴り止まなくて困る。
この声は一体何なの?エゴの最後の叫び?
そういう時は深淵の「真の私」を感じようとしても難しくなる。
ただただ苦しみが続いてしまう。
思考や感情は移り行くもの。現れては消えるもの。
それらを「自分」だと思い込んで生きている。
だけど、変わらないものがある。消えないものがある。
それは「気付いている自分」「意識」
思考や感情は脇に置いておいて、そこにシフトする。
そこには、何も変わらない、深淵の真の私がいる・・・