楽~になる生き方

楽~に、心地よく生きていこう

そうだ、出家しよう

幸せになるのをあきらめる という動画を見て、
自分が幸せになるのはもうあきらめて、好きな人の幸せを祈ろう…
なんて決意していた私だけど、
この際、人生そのものをあきらめて、さすがに寺に入るのは難しいけど
心だけはお坊さんのようになって、世のため人のために祈りを捧げる人になろう、
そうだ、出家しよう!なんてことを思いついた(^^;)

幸せになろうと努力すると苦しみばかり生まれる。
「快」を求めれば求めるほど、それが得られない「苦」が生まれる…

執着が私を苦しめる。逃れられない苦しみが心を痛めつける。
ならば全てをあきらめて、執着を手放して自由になりたい。

幸せになりたいという、これはもう執着だ。

私はもう自分が幸せになるなんてことはあきらめる。
自分の人生をよくしようなんて思いをあきらめる。
自分のことはあきらめて、他人の幸せだけに祈りを捧げよう。
もう十分だ。
半世紀近くも自分のことだけを考えて生きてきたのだから…。

これからは読経三昧の日々を送りたいと晩年の光源氏も言ってたっけなあ…。
さすかに読経三昧ってのは難しいとは思うんだけど(^_^;)
他人様の幸せや 世界平和だけを祈って生きるというのも、
それに近いことなんじゃないかと勝手に解釈する。

幸せになりたい、喜びと共に生きたい、人生を楽しみたい。
愛し愛され、心身ともに健康でありたい。
そんな様々な思いをあきらめて、それを他人に向けて祈り続けよう。

あの人が幸せでありますように。
世界が平和でありますように。
地球が笑顔で溢れますように。

自分を捨てて、つまり自我を捨てて、空気のような存在になりたい。
完全にオーラを消して、居てもいなくても気付かれない存在。
私が!私が!と主張することは不満や疑念を生むだけだ。
私はもう、自分を勘定に入れるのをやめる。
そして、毎日を丁寧に生きよう。

雨ニモマケズ」(@宮澤賢治)のように・・・。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく決して怒らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに

わたしは

なりたい