楽~になる生き方

楽~に、心地よく生きていこう

正しい言葉を使うこと

ドン・ミゲル ルイス著「四つの約束」の中の一つ目の約束が
「正しい言葉を使うこと」だったと思うんだけど、
ある朝、カーラジオから聞こえた「キッモ~イ!」という言葉を聞いて、
不意に「正しい言葉を使わなければいけない!」と頭に響き渡った。
「身体は全部聞いている。自分に向かって放たれた言葉だと受け止めている」と。

もちろんラジオから流れてきたその言葉は、私に向かって放たれた言葉ではない。
だけど、何か明らかに不愉快な感覚が身体に走ったように感じた。

頭ではわかっていても、身体は他人に向けられた言葉なのか
自分に向けられた言葉なのか判別できないというのだ。
だから他人に向かってても批判や叱咤、ネガティブな言葉を吐いてはいけない。
身体は全部聞いていて、ダメージを受けている、と。

決して汚れた言葉を使ってはいけない。
言霊というものは本当にある。
口から飛び出しそうになっても、一度丹田まで落として、
丹田から言葉を発すること。

美しい言葉を使うこと。
これは今後肝に銘じていきたいと思います・・・。

 

 

 

苦しみは不足感から?

あんなに苦しかったのに もう苦しくない
彼を見ても 苦しくならない、会えればただ嬉しくて幸せな気持ちになるだけ
あんなに苦しかったのは何だったんだろう?と
苦しみから解放されたプロセスをこのブログに残したくて
答えを探していた

私は 彼がとても欲しかったのだ 
そしてそれが絶対に叶わないと知っていたので 絶望していた
本気で、死にたくなるほど絶望していたんだ

だけど今は 
ただ 存在していてくれるだけでいいと感じている
時々会えて 笑ってくれて 元気で 幸せでいてくれれば・・・
あの、強烈な思慕はもう無い
時間が解決したのか?

いやきっと毎日一生懸命にしていたことが功を奏したのだと思いたい
それは瞑想だったり 筋トレだったり 慈悲のプラクティスだったり
寝る前の三凛さんのワークだったり… 
毎日しているうちに、胸の中から勝手に愛が溢れてきて
身体中が満たされていく感覚になっていった
以前は、愛を外側に求めていたのだ
愛は外からもらうものだと感じていたのだ
だけど、愛は内側にあったんだ

愛は与えたら無くなるものではない
いくらでもこの胸から溢れてくる
出せば出すほどに溢れてくる
他人から貰ったり奪ったりするものではない
内側から溢れてくるものだ ということが
実感として感じたこと。

それを実感できたとき、あの苦しみは、
不足感や渇望感から来ていたのだと知った。
外側(他人)に愛を求めても、もらってももらっても渇きは癒えることをしらない
砂漠に浸み込む水のように、もっと!もっと!と求める苦しみしかない
自分から出すことができた時、初めて自分も愛でいっぱいになっていることに気付いた

させていただいている

赤の他人への親切は、「した」のではなく「させていただいた」のだと、突然雷に打たれたように気付いた。

 

今日、あるグループでの移動中、倒れている人を発見して救急車を呼んだ。

たくさん人がいたので私はただ見ていただけで何もしてないのだけど、その時間にそこを通りかかることになったのは私と友人が空気を読まず時間をかけてみんなを待たせたことで、事故したばかりのその場に居合わせることになったわけで、時間合わせには役立っている(こじつけ〜(^^;;)

それを発見した人、救助した人、救急車を呼んだ人…みんな非日常な体験にしばらく興奮していたけれど、きっと人助け「した」といういい気分で家族に遅れた理由を報告したことだろう。

料理をしながらなんとなくそのことを考えていたら、突然「させていただいた」と降ってきて、頭から電気が流れたように鳥肌が立った。

赤の他人を救助する、という滅多に起きない体験を、させていただいたのだ。

そう考えるとあの人は神か仏か?

自然と手を合わせしまった(^^;)

人は人を助けたい…頼って欲しい…という欲求があり、助けてあげれれば幸福度が上がる。

それには助けてもらいたい側も必要なわけで、助けてもらえれば感謝という、これまた幸福度を上げる副産物が生まれる。

助け合いなんて綺麗事だと思っていた時代もあった。

というか、つい最近までそう思っていた。

だけど違ったんだ。

助ける側も、助けてもらう側も、両方幸せになり、誰も損はしない。

綺麗事なんかじゃなかった。

きっと、こんなこと、当たり前じゃん!今まで気付かなかったの?!という天然ナチュラルな人たっくさんいると思うんだけど、不肖私にはわからなかった。

他人に助けてもらうことなんかできない、迷惑なだけだと思っていた。

だけど助けることも、助けられることも、両方が神の行為だ!

持ちつ持たれつ、これもまた陰陽。

非日常な体験をさせていただいたことに、感謝🙏🏻

 

 

いつも愛でいる

今日のご啓示。

といっても、何となく頭に浮かんできたことなんです、ちょっと大袈裟(^^;;

でも一応書き留めておく。

 

悩みや執着、強い感情があるとチャクラがつまる。
チャクラにつまりがあると純粋な太い光の柱になれない。

小さいことでいちいち悩まないこと。引っかからないこと。
そもそも小さいことを気にしないこと。どーんとしていること。

全一愛の光の柱になると決めたなら、いつも愛でいなさい。

 

ちょうど半分の月・・・美しかったなあ

 

いつも愛でいる…

何かうまいこと言わなくちゃとか、気配りしなきゃとか、

小さいことでいつもクヨクヨしてた私。

ただただ、愛でいればよかったんだ…

そう思ったら、ハートがぽわ〜っと暖かくなった。

ただ愛の存在でいよう。

ただ愛でいよう。

けっして気負わず、ただ、愛でいよう。

 

 

 

 

 

心と体

陰陽☯
光と影、男と女、プラスとマイナス
辞書で調べると、

中国の易学でいう、宇宙の万物を作り、支配する二つの相反する性質を持つ気。
積極的なものを陽、消極的なものを陰とする。
日・男・春・奇数などは陽、月・女・秋・偶数などは陰。

とある。

慈悲のプラクティスの最初の文言は「心と体を持っています」
心、つまり精神は陽、身体は陰なんだそうだ。
この二つがそろわないと、地球に体現できないということ。
精神・・・魂だけでは、生きられない、体が必要なのだ。
そしてそのバランスが取れていないといけない。
精神だけが強いと、身体が病んでしまう。
身体だけが強いと、精神が病んでしまう。
同じようにあらゆることが、微妙なバランスの上に成り立っているのだ。

だから自分の体を愛おしむことはとても大切なこと。
自分だけでなく、他人の体も同じように大切にしたくなる。

 

慈悲のプラクティスはまず自分に。

私は心と体を持っています。

気持ちや感情、考えもあります。

悲しんだり、がっかりしたり、怒ったり、混乱したりすることもあります。

人生で、肉体的、心理的に苦しみを経験しています。

人生で、喜び、幸せ、愛を経験しています。

私は幸せになりたいと思っています。

私が幸せでありますように。

喜びと共にありますように。

心から楽しんでいますように。

愛し愛されていますように。

穏やかでありますように。健やかでありますように。

今日も笑っていますように。

いつもありがとうございます(^人^)

 

ずっと「寝たまんまヨガ」というアプリを使って寝る前に瞑想してたけど、ふとYouTubeで瞑想を検索したらたっくさん出てきた。

その中から「女性性を高める」という瞑想をしてみたら…

これがもう、すご〜くよかった☆*:.。. o(^^)o .。.:*☆

生まれて初めて、自分の女性性を愛おしく思ったような気がする。

女性であることの有難さに感謝したりして…

ちゃんと、自分の身体も愛するということを、

なんか、ようやくわかってきた今日この頃です*・゜゚・*:.。..。.:*・'

神の目線

運転しているときって結構ボーっとしていることが多くて
(もちろん運転には集中してる・・・つもり^^;)
気付きが降ってくることが多い。

今朝は、前のブログで書いた「過去の自分の全てが愛しい」
過去の自分の、どんな尊い行動も、どんな愚かしい行動も、
全てが愛しくかわいく思える、だっていつだって必死だったから。
を感じていたら・・・

桜井識子さんの本に書いてあった、うろ覚えなんですが(^^;)
山の神様に聞いた話として、高い山から見下ろす神の目線で、
人間は小さく、だけど一生懸命に生きていて、必死で、それがすごくかわいいのだと。
後でちゃんと読み直して書き直したいとは思うんですが(^_^;)
ザックリこんなことが書いてあって、それを思い出した。

その時、私の目にもその光景が浮かんできて・・・
神の目線から見たら、人間はとても小さく、一人一人が必死になって生きている。
自分を犠牲にして人を助ける尊い人生を送る人もいれば、
人を騙したり傷付けたりして私腹を肥やす人もいるけれど、
神の目線で見ればそのどの行動も必死で、必死に生きていて、
それがおそろしく小さくてかわいくて愛おしい。
助けてあげたくなるし、がんばれと応援したくもなる。
あまりにもひどいときは気付かせてあげたくもなる。

(ちょうどゲージに入ったハムスターを上から眺めてカワイイ~♡ひっくり返ってたら助けてあげたくなるし一人で起き上がれたらがんばったね!って言ってあげたくなる親心みたいなものだと想像する(^^;))

災害に遭い打ちひしがれている人々を見れば一緒に涙し、
豊作に喜んでいる人々を見れば一緒に喜び・・・
体験そのものを、愛おしんでいる。

高い目線で見れば、どの人間の人生も等しく体験であり、
どの人生も尊く、愛おしい・・・

これは私の半世紀生きてきた人生を振り返って感じた感覚に
畏れ多くも(^^;)近いと感じた。
これが全一愛なのかなって・・・。

どんな嫌いな人もその目線で見れば必死で生きているのが伝わってきて
かわいくて愛おしく思えてくる。
がんばってるんだよねって。
必死に生きてるんだよねって。
幸せになりたいんだよねって・・・。

みんなみんな幸せになりたい。
それで必死になってもがいている。
神は等しく愛を注いでくれているけれど、気付かなくて受け取れない人も多い。
だけど、いつだって愛は降っていたのだ。絶え間なく、平等に。

私はチャクラ全開でそれを受け取りたい。
今まで鎧を着て受け取り拒否してたんだ。
鎧を脱いだらカッパ着てたりしてさ・・・。
カッパ脱いでも傘さしたままだったりさ。

傷付くことを恐れずに、裸になって、この常に降り注ぐ神の愛を受け取りたい!

You are perfect.

「君は完璧だ」You are perfect.

ボーダー 二つの世界 という映画のセリフ。

(※観てません、王様のブランチで紹介してた)

 

誰もがきっと、完璧なのだ。

そのままで、なにをしても、しなくても、完璧なのだ。

どんな経験をしていても、必要だからしているのだ。

 

Netflixで「グット・プレイス」というドラマを観ているんだけど、死後の世界をコメディタッチで描いていて、時々グッと来るセリフがある。

今回は過去を悔いて落ち込むマイケル(元デーモン)にジェイソンが言ったセリフ。

 

「なあマイケル、過去の自分を反省したり罪悪感を持ったっていいけど、恥じることはないよ。だってマイケルはもうデーモンじゃない、ただの陽気なおじさんだ。」

 

過去の自分を恥じることはない…

なんつー深いセリフなんだ😭

だって、その時その時、全部、その場で出来た最高のことだったんだもん。

全力を尽くしたとは言えなくても、いつだって一生懸命だったって思うんだ。

ビビって尻込みしたことも、サボって怠けたことも、ズルしたことも、逃げたことも、嘘ついたことも、泣いて謝ったことも、なにもかも。

その場で出来た最高のことだったんだと思う。

だからどの時代の自分も全部がんばったねって抱きしめてあげたいし、すごくかわいくて愛おしいと思う。

ダメな自分も、必死で生きてきた私自身。

恥じることは何にもないんだ…

大切な大切な、経験だったんだよね。

 

今がどんなに苦しくても、絶対大丈夫なんだ。

苦しみは必ず終わる時が来る。

同じように、楽しいことが終わる時も来る。

永遠に続くことは何にもないから…