「被害者意識から抜け出す」

 

「空」の著者・Manaさんのブログを読んで、
自分がいかに被害者意識にまみれて生きていたか
よーくわかってメチャクチャたたきのめされた(-_-)
いや、たたきのめされてみた(^_^;)

「いじめられた」じゃなくて、「いじめられてみた」
「ひどいことをされた」じゃなくて、「ひどいことをされてみた」
「殺された」じゃなくて、「殺されてみた」(笑)

そういう風に考えると、実権は他人ではなくて自分にある。
「やられた」と思っていると、他人に力を与えてしまう。

ところが「やられてみた」と考えると、自分に力が戻ってくる。
「殺されてみた」なんて、笑いすら浮かんでしまう(笑)

ちょっと、殺されるという経験をしてみたかった、ということなのだ。

もちろん感情は、迫真のお芝居をしているんだからそんな風に思うはずないけど、
魂的には「そういう経験をしてみたかった」ということになるのだろう。
こういう経験をすると、どんな感情がわいてくるのか、が知りたかったのだろう。

もう金輪際、被害者意識で生きることを止めると宣言する。
「やられた」と思った途端にこのことに気付くようにする。
私は被害者ではない。 犠牲者でもない。

とはいっても、きっと何度もこの気持ちはわいてきてしまうのだろう。
そのたびに、気付く。はっ、私は今被害者意識になってる!と気付く。

気付くことさえできたら、こっちのもんだ!(?)

既に「喜び」だった

喜びで生きようと決めた途端に、、、
無理矢理喜びの感情を作り出そうとしたり、思い浮かべたり、
そう「なろう」と努力したりすることが滑稽だと気付いた。

何故なら…
深淵の「私」を感じたら、それは喜びそのものだったから!
喜びで「生きる」必要もなく、喜びに「なる」必要もなく、
既に、喜びそのものであったから!

ただ、「在る」だけで、愛そのものであり、
ただ、「在る」だけで、喜びであり、、、

植物がそのような状態であることはなんとなく知っていた。
「そこに在る」だけで植物は喜びなんだと。

でも、人間の深淵にも全く同じ、「そこに在る」だけで
パーフェクトな喜びがあることを知った。

それは2011年に読んだmanaさんの著書「空」に書いてあることと
最近知ったガンガジの言っていることが全く同じだったから、
突然腑に落ちてきたこと。
ガンガジの言うように、何度も自分の内側の静けさを感じていたら
瞑想するまでもなく、腑に落ちてきた。

ただ在るだけで、完璧なんだと・・・

 

でも現実というか、頭の中の自分だと思い込んでいたエゴの声は
何度も何度も言う。私なんか必要じゃないと。
私なんかいらないんじゃない?
この会社に必要じゃないんじゃない?
家族にも必要とされていないんじゃない?
恋人にも本当はいらないと思われてるんじゃない?

この世界に必要ないんじゃない?

鳴り止まなくて困る。
この声は一体何なの?エゴの最後の叫び?
そういう時は深淵の「真の私」を感じようとしても難しくなる。
ただただ苦しみが続いてしまう。


思考や感情は移り行くもの。現れては消えるもの。
それらを「自分」だと思い込んで生きている。
だけど、変わらないものがある。消えないものがある。
それは「気付いている自分」「意識」
思考や感情は脇に置いておいて、そこにシフトする。
そこには、何も変わらない、深淵の真の私がいる・・・

 

 

 

 

「ゆるす」と言うこと

「ゆるすということ」という本まで出てるし、大昔に読んだけど、
これまたぜーんぜんわかってなかった。
全然許せないし、むしろ許そうとも思ってなかったし、
その必要すらないと思っていた(!!)。

でも大好きなサイト「勉強すれば人生変わる」の最新記事に

 「もし、私が相手と同じ意識レベル(心理的な痛み、経験含めて)ならば、
 私も相手と同じように考えて行動しているに違いない」と実感する。
 それが「赦し」である。

と、ニューアースからの引用文がサラッと書いてあって、、、

それがビビッときた!!

なぜなら、直前にこの本を読んでいて、まさにそのことが書かれていたから。

 

喜びから人生を生きる!

 

「喜びで生きる」と決めて、ふと、「喜びで生きる」と検索したら
出てきた本。

ザックリ言うと臨死体験したインド人の女性のお話し。
レビューもよかったし、すぐ購入して読んでみた。

前半は彼女の半生のお話しで、途中まで読んだけど飽きて(コラー^^;)
思いっきり飛ばしてみた。きっと後で読むでしょう(?)。

中盤、彼女が癌になってから~臨死体験して生還のあたりから読み出して、
実はまだ途中なんだけど(別に感想文じゃないからいいよねー)。

臨死体験後の彼女の価値観(?上手い言葉が思い浮かばない(^_^;))は激変する。

「私たち」と「あの人たち」という分け隔ての感覚は無くなり、
全てが「私たち」という感覚になる。
それがたとえテロリストでも。
という例えの中に、上記のニューアースの一節が垣間見えた。

彼らと産まれたときから全く同じ環境で生きてきたら、
きっと私も全く同じことをしただろう。と。

これが「赦し」・・・!

なんだか小難しく考えていたけれど、そういうことなのかと
やっと腑に落ちた感じがした。
よく、相手の身になって考えろとかいうけど、
マジで大切なことだったんだね。。。!

全身麻酔下でワンネスを体験したことがあるけど、
感覚だけしか覚えていない。
とにかく、自分と○○、という隔てが一切なくなって、
目の前の冷たくて全く異質に見える鉄の塊までもが私だった。
あの先に臨死体験があったのかもなあ・・・??

あの時の私には、体の感覚としての一体感しか感じられなかった(覚えてない)けど、

精神的な一体感も感じられていたら、彼女のような悟りが訪れていたのかも?

 

 

 

エゴについて・パートⅡ

ずっと前にエゴについてって記事を書いたけど、

エゴは自分を守るための保険だと気付いたら・・・

ビックリするほど保険かけちゃってる自分にも気付いた!

実際の生命保険なんかもそうだけど、保険て、かけ過ぎると

実際の生活費まで圧迫してしまって、生活が苦しくなってしまう。

これじゃあ元も子もないわけなんだけど・・・

まさに、これとおんなじことをエゴはしてしまう。

 
例えば。
最近ある試験を受けたけど、イマイチ出来がよくなかった。
そこでエゴはささやく。
これは落ちるかも・・・。落ちるだろうなあ。ああ、落ちる!!
落ちた!
でも実際の心の中は、受かることを願っている。

でも、落ちる、落ちる、と思っていて実際に落ちたら、

「ああ、やっぱり落ちた」と少しだけクッションが出来ている。

しかし、受かる!受かりたい!!絶対に受かった!!

と思っていたのに実際には落ちてしまったとき、

クッションが無かったのでものすごく痛い。つらい。悲しい。落ち込む。

実際に起きている出来事は同じなのに、受け止め方が違ってくる。


ちょっと軽い例えだったけど、
こんな感じで、エゴは私に服を着せる。コートを着せる。
しまいには、鎧まで着せてしまう。

常に鎧を着てるから、ケガはしないけど、重くて生活しずらいよね?(^_^;)

普段の生活に、鎧が必要な人なんてそうはいない。

それなのに、普段から鎧を着ちゃってるんだから、息苦しくて仕方ない・・・。

でも、これがエゴの「過剰反応」で、

小さなうち(服)に気付いていれば、いや今日はコートはいらないでしょう、

と脱ぎ捨てることも出来るのに、どんどんエサ(反応、他人の関心など)を
与えちゃうもんだから、どんどん肥え太ってしまって、
しまいには鎧まで着込むようになってしまう・・・・というわけ。

だから早いうちにこれはエゴの声だ!と気付くこと。
エゴは平気でウソをつく。ウソの声に騙されないこと!

でも服を着ていないと、本当に転んでしまったときに大けがしちゃう。

だからジーンズくらいはいてるのは、いいと思うんだけど・・・

大けがしちゃうのも、いいのかもなあ?
大怪我しちゃって、そんな自分を受け入れて、しばらくうずくまって、
まただんだん立ちあがればいいのかなあ?

エゴには、今まで私を守ってくれてありがとう!

だけど私はもう大丈夫だから!と言ってサヨナラしよう。

(ここはセドナメゾットを使うといいかも!)

 

私は6年くらい前、地獄のような苦しみの真っただ中(元夫のDV)にいて、
あるヒーラーにずっとヒーリングを受けていた。
ヒーラーはいつもまさにこのことを私に促していたけれど、
苦しみの真っただ中にいた私にはどうにも届いていなかったようだ。
でも今、その時の言葉達がやっとのことで私の中で腑に落ちてきている。

何度も書いてるけど、やっぱり実践あるのみ!

 

 

喜びで生きる

私ってずっと・・・「怒られないように」行動してた(と思う)

子供のころ、末っ子で大人ばかりに囲まれて暮らしていた。

普段は物静かで優しい父だったが、時々突然怒って暴れ出した。

黒電話を投げつけてきたり、ガラスを蹴飛ばして割ったり。

ときおり我が家は壮絶な修羅の家となった。

アドラーはトラウマを否定するけど、私はずっとずっと

小さい子供のままの小さいハートが、大きい人への恐怖で埋まっていた。

大きい人を怒らせてはいけない。それは殆ど、生命の危機だった。

 

私はもう大きい。父はもういない。

それなのに、恐怖だけが生き残っていた・・・。

 

怒られないように、怒られないように、いつもビクビクして

顔色をうかがいながら生きてきた。

結果、見事な引き寄せで、まんまとDV夫と結婚してしまった。

今思うと、当然の結果と言えよう。結婚も、離婚も。

 

これからは、「喜びで生きる」と決めた。

自分が喜ぶことをするのはもちろん、

周りの人にも、「怒られないように」から、「喜んでもらえるように」。

 

自分を大切にとか、

ありのままの自分を愛するとか、

自分の機嫌を取るとか 色々書いてきたけど

結局それは全て 自分を喜ばすことだと思う。

自分が喜ぶことをする。他人は二の次。

 

ところが不思議なことに、他人に何かしてあげて、喜んでいる姿を見ることが

自分の喜びに直結していることにすぐ気付く。


歓喜だ。

「TOKYO」

と、東京オリンピックが決まった時のような、

歓喜の波が、最高(ピーク)じゃないかと思う。

ピークだから、そう長くは続かないけど。

あの歓喜を思い浮かべる17秒メゾットを一日何回かやっていれば、

引き寄せは成功する気がするんだよね。実験してみる。

 

「喜びで生きる」と決めたなんて言って、もちろんそれが

簡単なことだなんて思わないよ。365日喜んでるなんて不可能に思える。

でも近づけていきたい。たとえ二割でも、それが出来たら

きっと世界が変わると思うから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わらなくったっていい

 

「あるがままに生きる」とか
「あるがままでいい」とか言うけど
「あるがまま」の自分って、なんだ?
と自問していた(-_-;)

どうしても引き寄せられないし、最近また失敗した。
会社の人間関係も、前よりはいいけど、大して変わらない。
ちょっとしたきっかけで、またグズグズ悩んでしまう自分・・・。

しまいには「ありのままの自分」は高次の自分のことだと
思い込んだりして・・・。

会社の長い廊下を、「ありのままでいい、ありのままでいい・・」
とブツブツ言いながら歩いていた(危ないヤツ)。

突きあたりまで来た時、「変わらなくていい。このままでいい。」
と勝手に変換された。とたん、ブアッと涙が出た。

変わらなくちゃいけないと思ってた自分に気付いた。
カウンセラーにも言われてたし、あらゆる本にも、
「他人は変えられない。自分を変えるしかない」と書いてあるし、
私が間違ってるから引き寄せにも成功しないんだ、
変わらなくちゃいけない!と自分を叩き続けていた・・・!
そんな自分に気付いた途端、涙があふれてきた。

このままでいいんだ。
変わらなくてもいいんだ。
このまんまの私でいいんだ。

愛想が悪くても、話が上手くできなくても、(つまりコミ障)
仕事がおおざっぱでも、すぐ人のせいにしちゃっても(コラ)、
車の運転が嫌いでヘタクソでも、視力が恐ろしく悪くても、
少しズルくても、ズル賢くても、計算高くても(それはどうなの)
無理して変わらなくてもいい!
このままでもいい!

それが、「ありのままの私」を愛するってことじゃないの??

そう気付いたら、肩の荷がすーっと降りたように
胸のあたりが楽になった・・・。

 

 

 

「今」を受け入れるということ

今朝はものすごい寒さでした。

起きた時、家の中なのになんと3度。屋外は-1度。

屋外と大して変わらない我が家の壁の薄さ…(^_^;)

「寒くて嫌だなあ」となんとなく思った瞬間、

「寒さも楽しんでみたら」という気づきの声!

「!あっそうか!」と突然、腑に落ちた。

「寒さ」を拒否するから、つらい。

「寒さ」を受け入れて、その感覚をも楽しめばいい。

それが、「今」を受け入れるということ。

「今」と仲直りするということ。


それから床の冷たさや食器の冷たさを感じてみた。

指がかじかむ感覚、自分の掌で暖めた時の感覚、

ヒーターの暖かい風があたる感覚・・・

全てが、冬ならではの、「今」しか味わえない感覚。

おおー「味わい愛で」れてる!!(笑)

 

どんなことでも、辛いのは受け入れられないから。

受け入れてしまったとたんに、それは経験の一つになり、

観察の対象になり、興味深いものとなる。

「今」という一瞬一瞬の「刹那」を、初めてみるように味わえば

子供のころのような真っ白な気持ちでそれを受け入れられる。

雪は嫌だなあ・・・なんて子供のころは思わなかった。

雪に対する、純粋な好奇心でいっぱいだった。

そんな風に、全てものに初めて接した時のように

「今」を楽しめば、その状況を受け入れれば

悩みも苦しみも 無くなっていくんじゃないかなあ・・・

そんなことを思いながら、頬に落ちる雪の冷たさ、

革靴のつま先の冷たさを楽しんだ朝でした。